隠居生活☆東京・マニラ行ったり来たり

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2005年 04月 14日

出発!第2の人生(還暦後、残された日々をいかに生きるか)

★第2の人生スタート
2005年3月、還暦を迎えた。
十二支を5回、経験してきたわけだ。満60歳。
このきりの良い数字は、喪失した健康、破綻した人生からの新しい旅立ちにふさわしい。
干支の上からも、新しいサイクルがはじまるのだそうだ。
今までの人生を思い出の中に葬り去り、すべてをご破算にして一から始めよう。
主たる舞台は、メトロマニラのラスピニャス市、パンプローナ。
今、東京に居るが、段階的に拠点は、東京からマニラに移っていくことになるだろう。
けして急ぎはしないさ。
東京で暮らすも、マニラで暮らすも、今の私には、あまり変わりがなさそうだ。
ただ、終焉の地はマニラと決めている。
「静かに余生を暮らす」という言い方が、一般的に使い慣らされている。
が、余生という言葉は、それまでの生がまっとうで、何かを成し遂げた人でなければ、なかなか使えない。
私みたいないい加減な人生を歩んできた人間には、あまりふさわしい言葉じゃない。
「残りの人生、気張らずに静かに生きることを楽しむ」くらいの表現にしておこうか。あんまり変わりないか。ハハハ。


★片麻痺と緑内障
その残りの人生、第二の人生を、生まれつきの障害者として生きることになった。
思い描いていて楽しみにしていた、活動的で積極的な老後を生きることはスタートからつまずいたわけである。
夢に描いていた未来を失われた落ち込み、悔しさは克服してはいるが、それでも、時々気持ちが沈みこむ。
現在、抱えている病気は片麻痺と緑内障。
片麻痺。古い言い方では半身不随。
はっきり言って、毎日を生活することは、身体的にも精神的にもきつい。
車椅子のお世話にはなんとかならずにすんでいるが、歩くのは、相当にきつい。もちろん、走ることなどできない。
それに加えて、緑内障。
羞明という症状に悩まされている。光が眩しくてかなわないのだ。想像以上につらい。ツバつき帽子は必需品で、いつもかぶっている。
また、視野が欠けているためか、物を見るのが見にくい。すぐに眼が疲れる。眼が疲れると頭が痛くなる。視野欠損が頭痛に連鎖している。
このままどんどん身体がきつくなるのではと不安になる。
こんな人生、もういいやって、投げやりな気持ちになることもある。
でも、私はキリスト者、自分で自分を始末することなど、絶対にしない。
誰もが歳をとれば体が衰える。同時に精神も萎えるてくる、病んでくる。
それは宿命だから、受け入れるしかない。
そのとき、そのとき、できることを精一杯すればいいと気楽に考え、後は神様に身をゆだねればいいんじゃないか。

肉体的に決して無理はしない。が、心は前向きに保とう。
気持ちを楽にして、神の御心のままに生きるのさ。



★失ったものと得たもの
「世界の中心で愛を叫ぶ」という純愛を描くテレビドラマの中に出ていた
   「何かを失うことは何かを得ること」
というフレーズにいたく感動した。
確かにそうだ。物事の捉え方、気持ちの整理の仕方としては極めて正しい。
活動的に動きまわる老後という大きなものを失った。
ところで、俺は何を得たんだ。その代償は何だ。考えてみた。
自分が弱者であることを認識した時点で、以前より思いやり、優しさ、謙虚さを獲得した。

「人間は常に死と隣りあわせで生きている。いつ死んでもおかしくない」という意識も頭でではなく心で理解するようになった。
いつも死を自覚して残りの人生を生きることができるようになったかな。そして、死をこわいものと思わなくなっている。

信仰心を獲得し、神の存在を信じるようになった。
神を信じないことが科学的先進的態度とするのは、現代の最大の迷信だな。
宇宙の神秘的なもの、すべてを超越するもの、現代科学では説明できない偉大な何かを信じるようになった。

人智ではいかんともし難い運命を信じるようになった。
非科学的神秘主義者、運命論者と言うなら言うが良い。「科学的」という言葉であらゆることを断罪する剛直な唯物論からの訣別!科学至上主義者からは足を洗った。
自分が世界の中心であると考える尊大な生き物から、大きな力に翻弄されながらもがきあがくちっぽけな存在へ変化した。


★内在する喜びを求める
優越感の裏づけなしで他人を許すことが少しはできるようになったかな。
人と比較することで感じる嫉妬心から少しは自由になったかな。
この二つは大きい大切なことだ。
他人より優れているからどうなんだ?
取るに足らない自己満足さ。
他人より劣っているからどうなんだ?
見当違いの自己否定さ。
どだい優れているとか劣っているとか、その時代の世俗的価値基準で判断しているだけであって、あんまり意味がない。
他人との比較から得られる卑しさの入り混じった相対的な喜びではなく、その人の内面から沸きあがってくる純粋な絶対的な喜びを追い求めなくてはならない。

人間一人一人が、代替品のない、神様のお造りになったマスターピースなのさ。唯一無二の存在なのさ。そんな最高傑作を比較するなんて・・・



★おまけの人生、いつ死んでも良い
何時死ぬかわからない。
明日かも知れないし、意外や意外、平均寿命くらいまで生きて老醜をさらすかも知れない。
それは、神様がお決めになること。私があれこれ思い悩むことではない。
私のできることは、不摂生で自ら命を縮めないことだけ。
ただ、脳出血で倒れてから、今の人生は「おまけの人生」と思っている。「おまけの人生、いつ死んでも良い」と、覚悟はできている。特攻隊の生き残りみたいなもんさ。
今までより少しはましな生き方ができないかという思いはあるものの、ただ楽しく過ごせれば今まで通り無意味な時間、いい加減な人生であってもそれはそれで良いという思いが強くなってきている。世界を動かしたと評価される大英雄の人生と都会の片隅で誰にも知られることなく生涯を閉じたけちなチンピラ男の人生にどれほどの違いがあろうか。神の前では、何の差もないのさ。

よほどのことがない限り、フィリピンで死ぬことにしている。女房に看取られて。
火葬にして海への散灰を望んでいる。墓はいらない。大自然が私の墓だ。
病院でチューブに繋がれて生き延びるよりは、適当なところで幕引き(自然死)をしたい。
自分で自分の身の回りの世話をできなくなり、全面的に他人の手を煩わすようになったときが、この世を去る潮時と考えている。
象は死期を悟ると、群れから離れ死に場所に赴くそうだ。
その方が自然の摂理にかなっているのでは?
自殺はしないが、不自然な延命も望まない!
自然の摂理にかなった死に方を望む!


★鬼が笑う5ヵ年生存計画
数年先を考えることは意味のないことかもしれない。かといって、まったく、将来の設計図なしで、生きていくのも疑問符?だよな。
少なくとも近い将来だけでも目算を立てていても許されるのではないか。
まあ、鬼に大笑いしてもらおうか。ハハハ。
バースデイケーキが5本になるまで生きることが目標。女房のためにも。
毎年、ローソクを1本ずつ増やしながら、誕生日を盛大に祝い、その1年を生きられたことを心から喜ぶつもりだ。
まずは、来年3月、ローソク1本のバースデイケーキを女房に用意させたい。
こころをこめて、女房をハグしてやるさ。

健康な人より、10年か20年早く老を迎えてしまったようだ。
片麻痺を通して、歳をとるとはどういうことなのか、同年代の他の人よりわかっているつもりだ。
身体さえ許せば、ある程度の健康が保てれば、やりたいことはたくさんある。
そのいくつかを挙げていこう。
神様、私に力をお与えください。


★出会いを楽しむ
病気を経験し、この歳になって、ようやく大切なものが見えてきた。

物欲、金銭欲、名誉欲に惑わされることもほとんどなくなった。
死を身近に感じている人間には、こんなもの、意味ないよな。
それにつれて、肩書きや財産で人を見ることも少なくなった。
先が短いのにそれに気がつかず、偉ぶっている人間を見ると、心から気の毒に思えている。
残念なことに、知識欲、性欲も希薄になってきたかな。ハハハ。
食欲だけは旺盛だ。健在だ。この欲は生きていることの最後の砦だな。

最後の砦が陥落しない間に、美しいもの、素敵な人との出会いをできるだけ楽しもうと思う。
そのときそのときの感動を大切にして、毎日毎日を、一瞬一瞬を、慈しんで生きるんだ。
凡庸に物を見ていては、出会いに気づかない。見逃してしまう。心のアンテナを全開にして、隠れている美しいもの、素敵なものを見つけるんだ。
自分の方から心を開いて、他の人に近づき気持ちを通じ合わせよう。
自然と共感し自然に同化し、自然の一部になってものを見よう。
美しいもの、素敵なものと出会ったら、何かしらのの形にしてみたいな。
無尽蔵に転がっている生きがいだぜ。


★子供のように遊ぶ
小さな子供にとって、食べる、寝る、遊ぶが生活のすべてだ。
したがって、「遊ぶ」ということは、人間が生きていく上で、重要不可欠な要素だ。
歳を取ってもこのことは変わらない。いや、老後の日々を充実させるためには、今までにもまして大切なことなんだ。
ただただ、何も考えずに無心に遊んでみるさ。遊びのために遊ぶんだ。
いい歳の男がこんなことしていいんだろうかとか、他人がどう思うだろうかとか気にせず、あるときは他者の顰蹙をものともせず、あるときは常識を無視して、無心に遊び、生きていることを楽しむんだ。
晩節を汚すなだって、な~に、ずっと汚れてきたんだから、そんな言葉、俺には意味ないさ。
今の心境?
汚れてしまった悲しみに・・・ってところかな。ハハハ。


★家族を大切にして生きる
女房と離婚寸前までいった。長男夫婦と冷戦状態が長く続いた。次男に家出された。
いろいろなことがあった。よれよれになりながら、なんとか乗り越えてきた。
幸せそうに見える家族でも、多かれ少なかれ、我が家と同じようなことがあるんだろうな。
人間が集まって営めばそういうものさ。
歳をとった今は思う。最後の心の拠りどころは家族にあると。
家族といると、心が一番落ち着く。
最近、長男に女の子が生まれたのだが、その孫と時間を過ごすのは、至福の時間だ。
家族に囲まれた、ごくありふれたなんでもない時間。幸せの実体って、こんなところにあるんじゃないかな。贅を尽くした裕福な生活とか、人の羨む成功とかじゃないような気がする。


★異端を追求する
ヒネクレ者の私。反権威、アンチ権力の体質は変わらない。
いくつになっても、既成の価値を否定すること、破壊することに血が騒ぐ。
三つ児の魂百までだよな。
死ぬまで未熟なんだよ。ハハハ。
卑俗の中の美、混濁の中の純粋、偽りの中の真実
汚泥の中の崇高、低俗野卑の中の洗練、狂気の中の理性
こういったものを探し出していこう。ライフワークさ。
どこぞで聞いた「連帯を求めて孤立を恐れず」の精神を持ち続けるさ。
変に他人におもねったり、他人と妥協したりなんかしないさ。自分色で生きていく。
ゴーイング・マイ・ウェイさ。自分流で暮らしていく。


★具体的に何をしようか
これまで、生きる心構えというか心意気を抽象的に述べてきた。
具体的にとなると、今、考えているところだ。住んでみないとわからない部分があるんだよな。それも時間とともに変わっていくだろうし。
今決めているのは、インターネット、デジカメ、旅行(よたよた歩き)。
後は身体を動かし、リハビリになるものも探さなくちゃ。


   ☆☆妻への遺言☆☆
愛するカアチャン、俺は、墓なんかいらない。葬式もいらない。それでは気がすまないというなら、神父様に祈っていただいて、その後は、俺の死を本当に悲しんでくれる奴だけで、飲んで食って賑やかに楽しくやってくれ。
俺の悪口を、恨みつらみをさんざん言っていいよ。

お願いだから、コツツボなんかに入れて、暗い地下なんかに閉じ込めないでくれ。
俺が死んだら、遺体をさらさらの灰になるまで焼却して(ウェルダンだよ)、その遺灰を、子供たちとの思い出の地、セブか、ボラカイか、エル・ニドの夕陽の傾く美しい海に、撒いてくれ。俺の墓は大自然だよ。

墓が無いことに抵抗があり、俺のこと、少しでもいとしく思えたら、きれいな小瓶(香辛料なんか入ってた小瓶でいいよ)に俺の遺灰をつめて持っててくれよ。かわいいリボンなんか結んでさ。「世界の中心で愛を叫ぶ」の真似だって。いいの、いいの。俺がロマンチストでミーハーだって、よく知っているだろ。
あるいは、これもテレビで見たんだけど、灰をペンダントにつめて首にかけててくれよ。粘土に混ぜて焼いて、陶器の十字架にしても良いよ。しっかり守ってやるからな。

なるべく頑張って、生きるつもりだけど、何時、神様のお呼びがあってもいいように覚悟だけはしているよ。

この遺書が読めないって。漢字に挫折したんだよな。
大生か清太か、和夏の母さんか、清太の嫁さんになっている人に読んでもらえよ。
みんなと仲良くするんだよ。ガミガミと口やかましくするなよ。
楽しかったよ。
ほな、さいなら。お先に行って待ってるよ。


      ☆☆私のホームページのコンセプト(2005年)☆☆
(1) フィリピンのリタイアメント、ロングステイを実践している方との情報交換、あるいは、それを考えている方への情報提供。自分がフィリピン定住で経験したことをありのまま伝えていく。

(2) フィリピンの田舎を旅をし、フィリピンの美しい自然とごく普通の人々の暮らしを紹介する。他人に見せるためよりも、自分の生きがいとしてやっていくんでさあ。体力の続く限り。

(3) 美しいものを探し出し、その感動を伝える。どれだけできるかな。でも、志は高く持たなくちゃ。

(4) 隠居の達人達と交流し、少しでも長く生き延びるため術、老いを楽しく生きるための知恵を身につける。生きる意欲と勇気を相互に与え、与えられれば良いかな。

(5) 私の信仰の深化成長、教会での出来事の記録。教会、祈りは私の生活の一部となり、それ抜きでは語れません。


・・・・・・・・・・・・・・・・
私の感動した詩です。

   「今日は死ぬのにとてもいい日だ」
生きているものすべてが、わたしと調和している
すべての声が、わたしと歌をうたっている
すべての美が、わたしの目の中で休もうとして来る
すべての悪い考えは、立ち去っていった

今日は死ぬのにとてもいい日だ
わたしの大地は、わたしを穏やかに取り囲んでいる
畑には、最後の鍬を入れてしまった
わたしの家は、笑い声に満ちている
家に子供たちが帰ってきた
うん。今日は死ぬのにとてもいい日だ

(プエブロ・インディアンと生活するナンシー・ウッドの詩)

Today is a very good day to die.
Every living thing is in harmony with me.
Every voice sings a chorus within me.
All beauty has come to rest in my eyes.
All bad thoughts have departed from me.
Today is a very good day to die.
My lamd is peaceful around me.
My fields have been turned for the last time.
My house is filled with laughter.
My children have come home.
Yes, today is a very good day to die.

by wakahiroo | 2005-04-14 11:16 | ★出発!第2の人生(2005年)


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