隠居生活☆東京・マニラ行ったり来たり

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カテゴリ:★覚え書き(2007年)( 1 )


2006年 12月 15日

マニラ湾の夕陽に寄せて───2007年覚え書き

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        落日
   すべてのものに終わりがある
   終わりがあるから美しい
   限りがあるからいとおしい
   黄昏 一日の終わりの祝宴
   燃え尽きる前に輝きを増す線香花火の一瞬
   終焉と鎮魂の光芒
   消滅の予感が心を動かす


   死んだら、人はどこへ行く?
   死後の世界 時間も空間も意味をなさない暗黒の世界
   意識も感覚もすべからく抹殺された虚無空白の世界
   そうか、本当にそうか
   何の根拠もないくせに


   科学という名の信仰の盲信
   原因もわからぬまま発生増殖した水母(くらげ)のような思い込み
   生まれる前から刷り込みされていたような 
   教育を語った洗脳を受け続けたような 
   理性と権威のサープリスをまとった呪縛を解き放せ
   封印していた霊魂を来世を輪廻転生を信じてみようか
   ペシミズムとの絶縁  楽天的に陽気な神秘主義者
              (注:サープリス 聖職者の衣)


   陽が沈む 人は夜の闇の中で一日の疲れを癒す やがて確実に朝は来る
   落葉し木枯らしが吹く 自然は閉ざされた寒い冬の間に生命力を培う
   やがて確実に春が来る
   日常生活と自然界で起こりうることが生身の人間に起こっても不思議はない
   白髪が増え身体が衰える 人は死んで休息をとる やがて生まれ変わる
   そう信じるのも悪くない


   人生の落日の後
   冥界の漆黒の闇で 来世に備えて魂は安らかな寝息を立てる
   その前に今生でなすべきこと
   残された一日一日を大切に過ごすこと
   未練を残さず納得の行く終わり方を模索すること
   静かに穏やかに過ごすこと
   神を感じて祈り共鳴すること 
   家族、周りの人々、生きとし生けるものに感謝すること   
   透きとおった涙を流すこと 心の底から笑うこと
   美しいものに感動すること  生きた証しを表現すること



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夕陽を見ていると、美しさに引き込まれる。
生まれる前の記憶が思い出されるようで泣きたい気持ちに誘われる。
人はどこから来たんだろう。


夕陽は何故人の心をひきつけるのだろう。
有限は美、緊張、無限は退屈、弛緩なのか。
無限を際限なくダラダラ続く状態と見ると、あきあきする。
やはり、終わりがあるから美しく、限りがあるからいとおしく感じられるんだ。

夕陽を見ていると、懐かしさがこみ上げてくる。
胸の奥の方で放電が起こり、喉頭部に電流が走り瞼が熱くなる。
遠い遠い昔にも、こうして夕陽を眺めていたような気持ちがしてくる。
既視感、デジャヴというのかな。
心理学では記憶の錯誤と説明している。冷たい説明として聞いてはおく。
でも、DNAに埋め込まれた前の世の記憶とでも考えたい。その方が楽しくロマンがある。

人間はどこから来たんだ?
卵子と精子が結合し・・・なんてことを言うなよ。そんなもの学校の教科書にまかせておけ。
もっと根源的で心の奥に潜んでいるものを訊いているんだ。

若いとき、死が怖かった。
また、満天の星空、眼前に広がる水平線。果てしないものを見たり思ったりするのも怖かった。
人は、感知できぬもの、理解できぬもの、未知のものに本能的に恐怖を感じるのだろうか。

永遠、永久、とわ、とこしえ。
普通、時間的に果てしのない状態だよな。
だが、時間的無限であると同時に距離的無限でもある、時間と空間とが融合した概念のように思えてくる。

最近、永遠、永久は一瞬、そして、一回りした同じ場所と考えるようになった。
逆説的にではなく、まっすぐに見つめて言っているんだぜ。

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マニラ湾の落日を見ながら、人生の落日について考えていた。
そろそろ、この世とも、おさらばやなあ。
人は死んだらどこに行くんだろう。


俺は何時まで生きられるのか。
胸が締め付けられるように死を怖いと感じたり、ジタバタと生き続けようと執着したりする思いはもう消えている。
一方で、残された時間を愛しく思う心はどんどん強くなっている。一分たりとも無意味に過ごしたくない。
二つの心的状態は矛盾しているようだが、そんなことはない。
同じ心の動きの表と裏だ。

寿命なんて、神様がお決めになること、思い悩むことは何もない。
孫娘のランドセル姿を見たいという切なる願いはあることはある。
客観的に考えると後2、3年かな、いや、5、6年かな、なんて思ってはいる。
ひょっとしたら、平均寿命くらいまで老醜をさらしてしまうかもしれない。
これだけは、私の意思でどうにでもなるものでもない。
強い気持ちで孫娘のセーラー服姿を見るまで生きてやろうと思うだけさ。
ただ、恬淡とした心で死をいつでも受け入れる心構えだけはできているつもりだ。

死後の世界って、存在するのだろうか?
あるかもしれないし、ないかもしれない。
学校では、死後の世界なんて教えてくれなかった。
それどころか、死については教室で真正面から取り上げようとはなかった。タブー視していた。
学校は進歩・発展について学ぶところ、消滅・衰退に関わることついては回り道をし触れようとはしてこなかった。

だから、人は必ず死ぬという揺るぎない事実以外の、死の周辺については自分一人で考えざるをえなかった。
昔は頑なにこう信じていた。
死んだ後は何もない。感覚も意識もない虚無の暗黒。
霊魂なんかももちろん存在しない。
何故そう信じこんでいたか、どうして、そう考えるようになったのか、理由ははっきりしない。
唯物論に偏った学校教育の成果なのか。経済的成長を善とする「行け行け、バンバン」の思想的風土に知らず知らず影響されていたのか。

「神? 霊魂の存在? なんて非科学的な!」と一顧だにしなかった。それが存在すると考えることだけでも罪。皮肉な言い方をすると、「現代科学という名の宗教」に対する背神だった。
何の確たる根拠もないのに、死後の世界は何もないと信じ込んでいた。
今思うと、それこそ非科学的だよな。

現代科学教にどっぷり浸かっていたようだ。
その熱心な教徒として、教義にそぐわないものには、非科学的というレッテル貼って断罪してきた。疑うことを知らない盲信者だった。
地球的規模で、文明を気取るあらゆる地域を席巻した現代科学教。そこでは、キリスト教も仏教もイスラム教も邪教にすぎなかった。
それどころか、「非科学的」というお札で、魔女狩り、魔女裁判を行ってきたようだ。
科学や理性で説明できないことを問答無用で排除し迫害し続けてきた。

知識の獲得優先で深く考えさせようとしない学校教育。
若いときのめりこんだ弁証法的唯物論。
その辺が、私のこの思い込みに関係しているのかな。

とにかく、脳出血で倒れて、欝状態に落ち込み、心の救いが必要になるまで、宗教というものを、まやかしで、いかがわしいものと拒絶してきた。

神と共に暮らしていた時代もあった。いや、その時代の方が長かった。
だから、何かしらの宗教を信じ、心の中の神と対話し、神と共に生きようとする態度は、後ろめたさを感じる必要は何もないのだ。

現代科学教の世界は行き詰っている。
この排他的宗教は身動きがとれなくなってきている。
近い将来、形態はわからないが、神と共に暮らす社会が復活すると確信している。
にっちもさっちもいかない状況から抜け出るために。

物事は何も悲観的に否定的にに考えることはない。
どちらかわからないときは、楽観的に肯定的に考える方が幸せじゃないのか?
神を信じるようになった。現段階では神の存在を100%ではないが、70%くらい信じるようになっている。
というより、神を霊魂を信じると心に決めたのだ。

死後の世界も、自分なりの死後フィクションを作って、楽しむことにする。
トライキライザーとしての俺流神話も作って心を癒すさ。
笑って死んでいけるなんて、最高じゃん。

今わの際には家族にこう言い残したい。
「未知の世界に旅に行けるなんて、胸がワクワクするぜ。長くなるが留守を頼む。皆、仲良くしろよ」

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最近、こんな風に考えめぐらしている。
 ・・・・・・永遠・永久は、一瞬。そして、一回りした元の場所。
 ・・・・・・人は死んだらどこに行くのかを知ることは、人はどこから来たのかを知ること。


若いとき、次のようなことを考えたことがある。
光より速い乗り物に乗って、太陽系を抜け出し銀河系を超え宇宙の果てまで行ったとする。その先はどうなっているのか。
理系の学生だった。
光より速い乗り物なんて、SFの世界。現実世界にはあり得るわけがない。
馬鹿らしい。頭の中だけの想像の世界じゃないか。
宇宙について書かれた何かの本に「宇宙の果てのその先は何もない」と説明されていた。
納得できなかった。
現代科学で説明できなくなったら、何もないか。
死んだら、その先は何もない。
同じじゃないか。
空想、フィクションでいいから、小首をかしげながらでもうなずくことのできる答えが欲しかた。

宇宙の果てというものがどうしてもイメージできない。人智を超えた何物かが存在するのか。そこはもう神の領域か。
「西遊記」の孫悟空が筋斗雲に乗って、世界の果てまで行ったが、お釈迦様の掌から出られなかったという話を思い出していた。
ちなみに、筋斗雲のスピードは現代の速度に換算すると、光の速さと同じくらいの速さなのだそうだ。昔の人の直感は凄い。
神を全然信じていなかったのに、宇宙の果ては神の領域と逃げざるを得なかった自分がいた。
自分なりに世界の果てをイメージし、わりきれない思いを拭い去ろうと考えた。一つのイメージが思い浮かんだ。かなり良いアイディアとも思ったものだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
光よりも速い乗り物に乗って宇宙の果てとおぼしきところまで到達する。と、不思議な感覚に包まれワープする。
次の瞬間、別の世界の微小な原子の原子核に存在する自分を発見する(別の世界に生まれ変わる)。その際、その自分を精子や卵子とも考えたりした。さらにその世界で、何らかの不思議な力が働いて大きくなり(赤子として生まれるなどとも考えた)、光よりはるかに速い乗り物に乗り、その世界の宇宙の果てまで行く。そこで、同じ現象に包まれて次の別世界に存在する。宇宙の果てを極めようとすると、そのプロセスが際限なく続く。
 ・・・・・・・というイメージ。

仏教の輪廻転生やニーチェの永劫回帰の思想に知らず知らずのうちに影響を受けていたのかなあ。
宇宙の果てとか、死んだ後とかには、人智では考えられぬ何かが起こるのだ。
妙に納得して、その後、現世の享楽に夢中になり考えることを止めてしまった。でも、そのイメージを心の奥の方にずっと抱いてきたような気がする。

SFでは、ワープとは、空間のゆがみを利用して瞬時に目的地に移動することだそうだ。
宇宙について書かれた本で、宇宙の果ては曲がっていると読んだ記憶もある。「空間が曲がる」ということだよな。さっぱり、理解できなかった。今はなんとなく直感的に納得できるような気がする。
空間が曲がっているのなら、時間も曲がっているとも考えてみた。
時間のゆがみを利用した乗り物がタイムマシーンか。
あまり興味はないが、SFでは、空間や時間の瞬間移動は、宇宙物理学の理論の進歩・変遷と共に、進歩・変遷しているみたいだ。

宇宙の果てについては、もっともっと知りたくなり、インターネットで調べてみた。
宇宙の果てにはたどりつけないんだそうだ。
1次元の線の世界。直線には果てがある。それを円にすると果てがない。
円上をある一点からどんどん進めば、元の地点に戻って、その先は永遠に繰り返しになる。
2次元の平面の世界。平面にも果てがある。それを球にすると果てがない。
球上をある一点からまっすぐどんどん進めば、元の地点に戻って、その先は永遠に繰り返しになる。
私達の生きている3次元の空間の世界も、円や球と同じ理屈で空間をまっすぐどんどん進めば、空間は曲がっているから果てがないのだと・・・・
宇宙空間をどんどん進めば、元にもどってくるということらしい。
なんだか、分かったような分からないような・・・
現代科学ではこのような説明になるみたいだ。
でも、なんだか詭弁のようで、やっぱり理解できないな。

1次元の円や2次元の球は、3次元の世界に生きている人間には円や球としてその全体像を観察できる。だが、3次元にいる人間には、3次元空間の果てもその全体像も観察できないのだそうだ。
宇宙の全体像を把握するには人間の眼では無理。4次元の眼ないと無理ということなのか。
それができるのは神の眼なのかな。また、神が出てくる。
これはもう科学を超えた宗教の世界ではないか。
3次元の世界の真理を探求するのが現代科学であり、4次元の世界の真理を探求するのが宗教であるなんて思うのはちょっと軽薄な考えか。

宇宙の果てのレジメ的なページをさらに読み進んだ。
宇宙物理学、天文学の理論の進歩・変遷から「宇宙の果て」も、SF同様、変わってきているようだ。
アインシュタインの相対性理論から生まれたビッグバン理論によると、宇宙はものすごい速度で膨張している。時間では、私達は宇宙の果てにいるそうで、空間では宇宙の果てはないだそうだ。さっきの説明はこの辺の段階のようだ。

さらに読み進む。
私達の宇宙の他に、反物質宇宙とか鏡像宇宙とかが存在する可能性があり、それらを繋ぐのがブラックホールなのだそうだ。だから、宇宙の果てはブラックホールとも言えるのだと~。
ブラックホールを何でも吸い込む「黒い穴」なんて考えていたけど、そんな単純なものではないみたいだ。

最新の宇宙論は、アンドレ・サハロフの双子の宇宙説らしい。
私達の宇宙とは別に時間の流れが逆で、左右が逆の宇宙がもう一つあるのだそうだ。
四次元の世界から私たちの三次元の世界を見ると、私たちの「表の世界」のすぐ側に「裏の世界」があり、そこが三次元の世界で一番遠い所。
「表の世界」と「裏の世界」、これが「双子の宇宙」。二つの世界は「左右が逆」で「時間の流れが逆」で最も離れた世界でありながら、すぐ側にあって互いに影響しあっているのだそうだ。

わかるかい。オイラはさっぱりわからない。
宇宙物理学者が一生をかけて研究することを、短い時間で理解しようとしたって、そうは問屋が卸さないよな。
でも、一番遠いところが一番近いところ。
こいつは気に入った。禅問答みたいだな。
優れた宇宙論の学者は優れた宗教家のような気がしてくる。

それでも、ブラックホールとか、反物質宇宙とか、鏡像宇宙とか、双子の宇宙って、とても想像力を刺激する、示唆に富んでいる概念だよな。わくわくしてくる。

なんだか、宇宙物理学って、壮大な無駄をやっているような気もしてくる。
というより、壮大なフィクションを作り上げているような・・・
そんなことを言ったら、キリスト教も、仏教も壮大なフィクションなのかもしれない。
おっと、私はカソリック信者。この項、削除。

宇宙論学者のようにしち面倒くさいことを考えられない、私のような凡人のジジイは、日常の瑣末な事象の中に、宇宙の真理、発生、成長過程が潜んでいるんではないかと、ついつい思いたくなる。
そういう視点から日常の何気ない風物や人間行動を観察するのも、興味が尽きないぜ。
「なにげない日常生活と宇宙物理学のブラックホールの探究」さ。
つまり、日常生活と宇宙物理学の接点、架け橋を考察してみようということ。ハハハ。

宇宙の果てが見えれば宇宙の始まりが見えるのだそうだ。
だから、凡人は思ってしまう。
人間の死が見えれば人間の起源が見える。
 人は死んだらどこに行くのかを知ることは、人はどこから来たのかを知ること

一番遠いところが一番近いところ。
だから、凡人は思ってしまう。
 永遠・永久は、一瞬。そして、一回りした元の場所
でも、そこでは、すべてが逆になるんさ。

オイラの思いつきの発想さ。

宇宙の果て、宇宙の起源、永遠、ブラックホール、双子の宇宙については、折に触れて今後も考え続けていきたい。
日常の出来事を深くみつめることができるように・・・・


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夕陽を目の前にして、マニラ湾岸に集まる善男善女は幸せな表情をしている。
皆、至福の時間を過ごしていると気がついているのかな?


いつ死んでもいい。
一瞬一瞬を魂を燃焼させて悔いを残さず生きるんや。
開き直っているのとは違うぜ。
今の気持ちを正直に述べているんや。

死に急ぐこともないが、死を恐れることもない。
やがてやってくるその時まで生きることをを思う存分楽しむのさ。
できるなら、生の証しとして、少しは意味あることもしてみたい。
家族の、あるいは、誰かの心に残ること・・・
だども、ケチな人生を送ってきたハンパモノの俺。そんなにいきがることもないか。

自然の営みは偉大だ。象や鯨は、自分の死を本能的に感じ取り、その時期になると、自分達の墓場に赴いて死を迎えるという。理想的な状態だな。そうありたいものだ。
病院のベッドでたくさんのチューブに繋がれて、薬漬けになり、自分の意思とは関わりなく生かされるなんていうのは、まっぴらご免だ。
そいつだけは断固拒否するぜ。
カアチャン、そんなところで銭っこ、使うなよ。

女房の国、フィリピンという土地で老後を過ごすことは、自分に適しているような気がする。
しばらくは、日本とフィリピンの二股生活になるが、漸次、フィリピンに重心を移していくつもりでいる。

        残された日々の過ごし方  6カ条 
      1.家族を大切にし、気張らずに静かに生きる
      2.内在する喜びを求める
      3.出会いを楽しむ
      4.子供のように無心に遊ぶ
      5.異端を追求する
      6.表現者として生きる


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◎家族を大切にし、気張らずに静かに生きる
女房とは、危機的状況が何度かあった。
なんとか、それを乗り越えて来た。
喜びも悲しみも幾年月ってところかな。
今は、とても仲が良い。
難敵には正面から立ち向かっては駄目。いったん引くことを覚えた。
負けるが勝ち、含蓄のある言葉だぜ。

家族は癒しと再生の源泉。
身近な人の幸せは自分の幸せ。

最近、喉の奥に違和感を感じる。咽喉ガンかもしれないなんて心配してしまう。
また、すぐに頭が痛くなる。
この歳になると、身体のあちこちに不調が出てくる。
部品交換ができないのだから、騙し騙し使っていくしかない。
ただ楽しく過ごせれば今まで通り無意味な時間、いい加減な人生であっても、それはそれで良い。
肉体的に無理はしない。が、心は前向きに保とう。
気持ちを楽にして、神の御心のままに生きる。
後残された時間がどのくらいあるか、わからないが、生ある限り、精一杯、生きることを楽しむさ。

ゆっくり流れる時間。静かで穏やかな環境。
家族を大切にして、自分色で生きていく。自分流で暮らしていく。



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◎内在する喜びを求める
私が常に心に留めようと努力していること。
それは、外に「感謝の心」を持ち、「内なる喜び」を求めること。
嫉妬、侮蔑、憎悪、優越感、劣等感などのマイナスの感情から自由になるぜ。

感謝して周りと接すると、不平・不満が沸いてこない。人との歯車がうまくかみ合うようになる。

青い鳥はすぐ近くにいる。
他人との比較から生ずる幸せは偽りの幸せ。
真の幸せは心の中にある。
心にかなった生き方をしていれば、心のうちから沸き上がってくる絶対的喜びがある。
立身出世とか、金儲けとか、社会的栄達を軸にする生き方とは違った生き方があるんだ。

ピーク・ハンター的登山を否定し、山を楽しむという登山への方向転換。
どれだけ多くの困難な山を征服するかって疲れるぜ。熟年者の楽しみ方ではない。
低い山には低い山の良さがある。



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◎出会いを楽しむ
出会いは素敵だ。
人との出会い。自然との出会い。
一期一会を心に刻み込んでいこう。

フィリピンの普通の人達の生活、考え方、感じ方に関心がある。。
ビレッジとか、コンドミニアムではなく、あえて一般庶民の住むアパートを借りている。
事情があり、女房が11月帰ってくる前、引越しした。ベッド、冷蔵庫等の家財は運んであるそうだ。
以前の場所から5分足らずのところにある、ナックピル通りのアパート。
新しい舞台で新しい体験が始まる。好奇心、いっぱいさ。

美しいもの、素敵なものと出会ったら、何かしらのの形にしてみたい。
会うは別れの始まりだものな。


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◎子供のように遊ぶ
歳をとると子供に還るという。
望ましいことさ。神様がそうプログラムしているんだ。
世の中の良識とか世間体とかにとらわれず、お金と労働の呪縛を解き放ち、
生まれた時の無垢な眼との汚れのない純粋な精神で、遊ぶために遊ぶのさ。


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◎異端を追求する
他人(ひと)と同じことをするのが大嫌いだった。
できあがった体制、偉そうに仮面をかぶっている権威に反抗的なヒネクレ者だった。
それは、歳をとっても変わらない。
「三つ児の魂、百まで」だ。

卑俗の中の美、混濁の中の純粋、偽りの中の真実、汚泥の中の崇高、狂気の中の理性、
低俗野卑の中の洗練、老獪・爛熟の中の純情、退廃の中の清純、堕落の中の健全。
隠れているそういったものを探していくぜ。

対立概念はコインの表裏。
一番遠いようで一番近い。
双子の宇宙でも、一番遠いところがすぐそばだものな。

何かを得ることは何かを失うこと。
逆も然り。
何かを失うことは何かを得ること。
人生、悲観なんか、することないべさ。

最後に
  「連帯を求めて孤立を恐れず」
  「造反有理」よ。ハハハ。


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◎表現者として生きる
大学に入って、都会生活に馴染むにつれて、ホモ・スクリペンス(物書き人間)とかフォトグラファーとか、表現する生業に憧れた。
でも、今まで獲得したもの振り捨てて方向転換するほど、強くはなかった。変革を口にするわりには意気地なしだった。
家族の呪縛というのもあった。両親を悲しませてまで、トブことができなかった。
吹っ切れなかった。
心の底に欲求不満を抱えて、中途半端なまま、ここまできてしまった。

人生で遣り残したことは、自分の思いを文章に写真に表現すること。
真似事になってもいい。自己満足でもいい。趣味といわれてもいい。
残された日々は、表現者として生きよう。
人生の忘れ物を少しだけ取り戻すんだ。

表現命で行くぜ。
表現するのを止めるときが死ぬときさ。
 
まずは、東京とマニラを舞台にブログに写真と詩文を載せることから始める。
   久方の 光輝け 今少し 生くる証しを 残し旅立つ

by wakahiroo | 2006-12-15 05:57 | ★覚え書き(2007年)