隠居生活☆東京・マニラ行ったり来たり

wakahiroo.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2006年 09月 07日

アナック

フィリピノ語で、「アナック」とは、自分の子供(息子や娘)のこと。「アポ」とは、孫のこと。女性と男性の区別はない。
つまり、私には、二人のアナックと一人のアポがいることになる。

b0018885_1557462.jpg

毎週月曜日、マビニ・ストリートのの「ホビット・ハウス(Hobbit House)」で、フレディ・アギラ (Freddie Aguilar)のライブがあるのを知って、このところ、毎週、聴きにいっている。
開演 10時半 、入場料 195ペソ(約400円)

楽しめる! やっぱり格が違う。
ホビット・ハウスに行くのは5年振りくらいかな。
うるさいバンドが演奏するようになり、しばらく行く気にならなかったのだ。

b0018885_15203392.jpg


b0018885_1625544.jpg


実は、ホビット・ハウスは、私達夫婦にとっては、特別な場所なのだ。
女房と知り合った頃、よくデートした思い出のお店なのさ。
アパートから、歩いて3分くらいのところにある。
今度の訪比は、思わぬ懐旧のセンチメンタル・ジャーニーになっている。

もう、27年前になろうか。
私34歳、女房20歳。
将来の展望を失った疲れた中年男と、ピチピチのギャル。
このパターン。今、日本の各地でたくさん見られるよな。ハハハ。
だども、女房は日本語がまったく話せなかった。英語でコミュニケーションを取ってたで。

遠い昔のことで、記憶がもう定かではない。
若かりし頃のフレディ・アギラも聞いたような気はしていた。
その点、女房は記憶が鮮明。
ホビット・ハウス、内装は変わっていないが、ステージの位置が違うんだと。
そして、このお店で、25年前にフレディの歌う「アナック」を最後に聞いたんだと。
「そうだったなあ」と相槌を打つしかない。
それどころか、ホビット・ハウス。
前は同じマビニのずっと北側、ルネタパークの近くの小さなフォークのお店だったというのだ。
そして、そこに連れて行ったのは、私なのだそうだ。
女房はその店の存在すら知らず、若きフレディ・アギラが一人でギターを弾きながら歌っていたのでびっくりしたそうだ。
女房が17歳のとき、「アナック」が大ヒットし、ファンで、ずっと生で聞きたかったのだそうだ。

すべて思い出せない。でもないか。ひどく酔っぱらった日の前夜のことのように断片的には覚えている。
いよいよボケがまわってきたな。すべてが忘却の彼方に・・・・
忘却とは忘れ去ることなり、と言ったの誰だったけ。それも忘れた。

b0018885_1523091.jpg

この日、テレビの収録があるということで、演奏に先立って、インタビューがなされていた。

ところで、フレディ・アギラって、知ってるかい。
「アナック」という曲で世界的ヒットをとばしたフィリピンの国民的歌手。
それだけではない。ビッグ・ネームを獲得した後も、虐げられた者、社会的弱者の側に立ち、この国でしたい放題をしている支配階層の
巨悪に立ち向かう姿勢を取り続ける、信念を持ったシンガー。
イメルダを手始めに、アキノも、アロヨも、この国民的歌手を取り込もうとしたが、結果的には、拒絶されたらしい。
近づきもせず、離れもせず、ギリギリのところで均衡を取っているのかな。
この国で反権力の言動を取るということは、とても危険なことだ。
それにもかかわらず、この姿勢。あらゆる批判を飲み込んで拍手したいな。

新宿西口のフォーク・ゲリラ世代、いや、全共闘世代としては、おおいに共感が寄せられる歌い手なのさ。

b0018885_15262775.jpg

フレディ・アギラのライブのCDを買った。
それにサインをしてもらい、写真を一緒に撮らしてくれと所望すると、気軽に応じてくれた。
フレディ、53、4歳。私より7、8歳、若い。
握手した、その手は温かく、眼差しは柔和だった。
若い頃は鋭く暗くトンガっていた気がする。
これから、円熟する歳だよな。
これからもその動向から眼を離せない。
ミュージック・シーンだけでなく、私利私欲をむさぼる亡者達が跋扈し、出口なしの政治シーンにあっても、現状変革のなにかしらの起爆
剤になってほしいなあ。
あんまり期待するのも酷だよな。守るべき家族もいるものな。
自然豊かなタガイタイにあって、今まで通り、混沌とした絶望的政治体制を批判し続ける、草の根のプロテスト・シンガー・ソング・ライ
ター、フィリピンの良心であってくれればそれでよいか。

同時に、息子達のお土産にとアナックと文字の入ったTシャツとホビット・ハウスのTシャツを買った。
1998年、高1の長男と小6の次男を連れて皆でパラワン島のエルニド村に行った。
そのときも、家族でホビット・ハウスに立ち寄った。
その時、買ったTシャツを二人とも大事に着ていてくれたことを思い出したのだ。
もうよれよれになっているか、廃棄してしまっているはず。

長男は、私と最悪の関係だった時期にも着ていてくれた。
Tシャツで、なんだか父と子の絆が保たれているような気がしていた。
変な話だろ。
そのアナックも子を持ち、最近は、いろいろと私を思いやってくれるまでに成長した。
一度、自分の中でオヤジを殺し、やがてはオヤジに感謝するようになるんだよな。
私もそうだった。

私の老い先はそんなに長くはないだろう。
「アナック」という文字にこめた私の思いが伝わればいいのだが・・・
b0018885_15301534.jpg

「アナック(息子よ)」を熱唱するフレディ。

以下は、女房の言うことなので、あまりあてにしないで聞いてくれ。
フレディはオロンガポの出身。マビニでストリートミュージシャンをやりながら酒とドラッグに溺れ、学校にもいかなくなった。
いわゆるマビニのチンピラだったそうだ。
名声を得、金ができてから、型通り何人も愛人を作り、ドラック・アディクトからも抜け出せず、レコード会社とのトラブルを引き起こし
たり等、評判がまたたくまに落ちた時期もあったそうだ。


この夜、二人の息子が同じステージに立っていた。
今のホビットハウスで、女房とフレディを聞いていた頃、フレディにいつも寄り添っていた、すごくきれいな魅力的な女性がいた。
この辺はなんとなく覚えている。すごく羨ましかったもん。それがこの子達のお母さんなのかな。
ヒップ・ホップをやっているという上の方は22歳だという。ちょうど符合するよな。
この日は、ヤンゲスト・サンだという、甘いマスクの下の方の17歳の誕生日だった。
母親似だな、これはどうも。でも、ギターの腕は、相当のものだった。
私の長男と次男の年齢と同じくらいだった。
そんなこともあり、いっそう、フレディに親近感が湧いた。

どうだい、俺ら夫婦にとって(特に女房にとって)、ホビット・ハウスとフレディ・アギラは特別なライブ・スポット、特別な歌手である
ことわかってくれたよな。

b0018885_1536182.jpg

お昼のホビット・ハウス。
隣りが時々行くカリンデリア。その隣りが、ピアノバー&レストラン「リメンバランス」

ところで、その時期、何しにマニラに行ったかって?
当時は、オヤジの買春ツアーの全盛の頃、東南アジアに行くというだけで、白い眼で見られたね。

でも、一味も二味も、違っていたんだぜ。
その頃の私の愛読した雑誌は「情況」と「序章」
この雑誌の名、知っているなら、相当な新左翼オタクだったな。
相当な新左翼かぶれで、新宿無頼派、アナキストを気取っていた。相当なアホやったろ。
一歩間違えれば、北朝鮮か中東に渡っていたかもしれないし、浅間山麓に埋めれていたかもしれないな。ハハハ。
「辺境の最深部にに向かって退却せよ」という新左翼系のアジテーターの言葉を真に受けて、休暇が取れれば東南アジアの片田舎をリュック一つで
貧乏旅行して歩き廻っていた。かなりの単細胞の頭の持ち主だったてわけよ。

東南アジアを見聞して何を得たかだって?
そりゃ、無形の物をたくさん得た。
が、しかし、有形の物は、女房だけだったかもしれねえ。
それが最高の獲得物だったか、最大の誤算だったかは見方の分かれるところ。ハハハ。
二人のアナックと一人のアポがいる今は、その手前からも、いや、衷心から前者にしておくぜ。

とにかく、己のアイデンティテイをつかめず将来に漠然とした不安をいだき、長年つきあっていた女性からも愛想をつかされ、何気に
傷心の中年男と、何があったか知らないが、セブからマニラに出てきておばさんのところに身を寄せたものの、なかなか仕事が見つか
らず、やはり将来に漠然とした不安を抱いていた、うら若き女が、意気投合するのにそんなに時間はかからなかった。
恋はするものじゃない。落ちるものだぜい。(←このフレーズ、使ってみたかった)
フォーリング・イン・ラブから結婚し東京で一緒に暮らすまであまり時間がかからなかったな。
結婚するまで、約1年。
その間、当時は国際電話なんてシャレタものは使えず、手紙で連絡を取っていた。
その手紙を女房持っていたら、赤面ものだぜ。多分、アイ・ラブ・ユーとアイ・ミス・ユーのオン・パレード。
女房からライターを奪い取って(私は煙草を吸わない)、即座に燃やしてやるで!

1月11日に結婚したんだと。これも女房に教えてもらった。
それから、3ヶ月でビザが下り、4月には、東京で一緒に暮らしていたんだとさ。
全部、すっかり忘れていた。ハハハ。

それと同時に、私の東南アジア放浪も終焉した。
その続きは、老後の楽しみに取っておいたつもりだ。
ところが、そうは問屋が卸さない。
神様は、こんないい加減な私にそんなに甘くない。
2002年、脳出血で倒れ、自由に旅行することのできない身体になってしまったのである。

今度のプエルト・ガレラの旅行で、一人旅をしている、72歳だという金沢のスーパー熟年の方と出会った。
私の夢を実現しているんだ。
悔しかった。が、これも、運命と納得せざるをえなかった。

b0018885_1539722.jpg

ライブ中の店内。
やっぱり、人気がある。
巧みな演奏とトーク。
次第に観客がノッていく。
客席からも、声がかかる。
楽しめる。あっという間に時間が立ってしまう。


「アナック」を日本の二人の歌手がカバーしている。
杉田二郎と加藤登紀子だ。
加藤の方が原歌詞に忠実な気がするが、私がピーンとくる杉田の方の訳詞を紹介しておこう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ANAK(息子)」  
お前が生まれた時 父さん母さん達は
どんなにかよろこんだ事だろう
私達だけを
頼りにしている寝顔のいじらしさ
ひと晩中母さんはミルクをあたためたものさ
昼間は父さんがあきもせずあやしてた

お前は大きくなり自由がほしいと言う
私たちはとまどうばかり
日に日に気むずかしく変わってゆくお前は
話を聞いてもくれない
親の心配見むきもせずお前は出てゆく
あの時のお前を止めることは誰にも出来なかった

息子よ お前は今 悪の道へ走り
荒んだ暮らしをしてると聞いた
息子よ お前に何があったのだろうか
母さんはただ泣いている
きっとお前の目にも涙があふれているだろう
きっと今ではお前も後悔をしてるだろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わかるよね。
フレディは、母と父の立場にたって自分のことを歌っているんだ。
2連は、自立への旅立ち。大なり小なり誰でも思い当たるところがあるよな。
でも、私が自分の思いを重ねたのは3連の方だ。
母の心配をよそに荒んだ生活していたからなあ。
大企業に勤めたものの、その平穏な閉塞された日常に耐え切れず、新宿に舞い戻り、工事現場で日銭を稼ぎながら、酒に溺れていた。

母が死んだときは、斎場の母の棺の前で、申し訳なくて、傍目も気にせず慟哭した。
母に、親不孝をし続けて、最後まで迷惑をかけ続けた。
その母だけは女房に優しくしてくれた。
晩年、母に孫の顔を見せたのが、最大の親孝行だったかもしれない。
小さかった次男はともかく、長男も祖母の優しさだけは記憶しているだろう。

杉田の「アナック」を聞いたときは切なく悲しくやりきれなかった。

自分の思うところに逆らわず、やりたいことをやってきた。
甘えていると言えば、それまでだろう。
で、歌にあるように、後悔しているかって?
そうでもないんだぜ
こんな生き方しか、できなかった。
運命だよな。

やくざな息子をもった、亡き母へ贈る一言。 
  母さん、ご免。背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹

どこかで聞いたようなフレーズだって。ハハハ。

b0018885_15475692.jpg


b0018885_15483290.jpg

フレディのアナック達

フィリピノ語の「アナック」である。
慰みにでも口ずさみたく、CDを聴きながら今、練習中である。
ただ、歳を取り、音楽的正確性に欠けるところがあり、悪戦苦闘している。
あれ、もとから、かなり音痴だったけ?
自分なりの日本語訳、作りたい。が、そこまでフィリピノ語、わかっていないんだな。
悲願だな。冥土の土産に持って行きたいものだ。

・・・・・・・・・・・・
  Freddie Aguilar 「Anak 」

Nang isilang ka sa mundong ito
Laking tuwa ng magulang mo
At ang kamay nila ang iyong ilaw
At ang nanay at tatay mo'y
Di malaman ang gagawin
Minamasdan pati pagtulog mo
At sa gabi'y napupuyat ang iyong nanay
Sa pagtimpla ng gatas mo
At sa umaga nama'y kalong ka
Ng iyong amang tuwang-tuwa sa iyo

Ngayon nga ay malaki ka na
Nais mo'y maging malaya
Di man sila payag
Walang magagawa
Ikaw nga ay biglang nagbago
Naging matigas ang iyong ulo

At ang payo nila'y sinuway mo
Di mo man lang inisip na
Ang kanilang ginagawa'y para sa iyo
Pagkat ang nais mo'y
Masunod ang layaw mo
Di mo sila pinapansin

Nagdaan pa ang mga araw
At ang landas mo'y naligaw
Ikaw ay nalulong sa masamang bisyo
At ang una mong nilapitan
Ang iyong inang lumuluha
At ang tanong,"anak, ba't ka nagkaganyan"
At ang iyong mata'y biglang lumuha ng di mo pinapansin
Nagsisisi at sa isip mo'y
Nalaman mong ika'y nagkamali
Nagsisisi at sa isip mo'y
Nalaman mong ika'y nagkamali
Nagsisisi at sa isip mo'y
Nalaman mong ika'y nagkamali
Nagsisisi at sa isip mo'y
Nalaman mong ika'y nagkamali

・・・・・・・・・・・
日本に帰ったら、もう一度、杉田と加藤の「アナック」を聴いてみようか。

近くてすぐ行けるせいもある。
その後、我が思い出の「ホビットハウス」によく食事をしに行くようになった。
お世辞にも旨いとはいえない。が、洋食系のメニューは、一応口には合う。
フィリピン料理、中国料理に次ぐバリエーションの一つになった。
少し高いが、その分、音楽が聴けるので我慢はできる。
難点は、欧米人向けなのか、1品1品の量が多いこと。

by wakahiroo | 2006-09-07 15:12 | ○マラテ迷宮案内


<< 一杯のグリーンマンゴ・シェーク      プエルト・ガレラ旅行記「老人達... >>